差別が生む荒野

めったに教会に行かない不良クリスチャンだけれど、引っ越した家の近くに偶然にもカトリック教会があったので、今年のクリスマスは25日の日中ミサにてくてくと歩いて行ってみた。

しかし第一朗読で私は凍り付いたようになり、後のことはあまり記憶に残っていない。その日の箇所はイザヤの預言52・7~10
ちょっとここに引用するのも気が重くて、気になる人はリンクから確認してほしい。

現代に置き換えれば、エルサレムを贖われ、平和を得るべき民はパレスチナ人の方だ、とも解釈できるとは思う。
しかしまさにこういう聖書の言葉がシオニズムの根拠とされてきたことを思わずにはいられなかった。

同時に、欧米のキリスト教徒の中にも多くいるシオニストが、こうした聖書の言葉を差別の正当化に利用してきたのだろう…と思い至ってしまった。

根本に、差別があるとしか、どうしても考えられない。
あんなむごい虐殺を、灰と血にまみれた子どもの泣く姿を、裸にされた人々が銃を突き付けられる姿を見て、それでもまだ肯定するというのは。

人間を同じ人間だと思わない、その心の荒れ果てた潤いのない場所には、もう何も語りかけられないのではないかと思えてしまう。

「差別は人を殺す」と、さまざまな差別の場面で訴えてきたけれど、これほどの虐殺を生み出すものであることは、私は今まで認識できていなかった。

現代のユダヤ人は、ヨーロッパ系の人種的特徴を持つ人が多い。2千年前ローマ帝国に追いやられ離散する以前のユダヤ人はパレスチナあたりの中東の民であったはずだから、多くのユダヤ人の現在の姿は、ユダヤの民族的根拠が人種ではなく宗教に基づいていることを物語っていることの一つであろう。
しかし、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、他の宗教や無宗教者も含むシオニストは、根深い人種・民族差別を抱いているように見える。
特定の人種や民族を下等な存在とみなす価値観を植え付けられ、そのために虐殺までも正当化する。

肌の色や容姿がほとんど違わなくても、一部の日本人が韓国人、朝鮮人、中国人に抱いている差別的価値観にも近いものがある。
K*llthemallなんてハッシュタグが流布することが、とても信じられないような思いだけれど、日本での朝鮮人ヘイトデモで同じようなプラカードが掲げられていたこともあった。

差別は本当に人を殺す。
この言葉をこんな形で実感したくはなかった。しかし深く心に刻んでおかなければならないと思う。
そしてその種の差別は、誰の心にも、私自身にも、思っている以上に簡単に生まれ得るのだということも。

アイキャッチ画像:写真AC

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