いつのまにかTwitterデモができる世の中になっていた

#検察庁法改正案に抗議します のタグから始まった一連のTwitterアクションに、驚きながら感動しています。

この問題は、これまで内閣は検察側から上がってきた人事を承認する任命権しかなく、基本的に介入しないものとなっていた検察の人事に、内閣の一存で手を加えてしまった黒川氏の定年延長から始まっています。
犯罪捜査に政治権力が影響を及ぼし、三権分立が脅かされるという懸念からたくさんの抗議の声が上がり、今国会では法案成立が見送られることとなりました。

まだ油断できない政府の動きに、気を緩めてはならないという緊張感の中で過ごす日々ですが、市民レベルのアクションが本当に政治を動かしているという事態は、ここ数十年の日本社会において歴史的な出来事だと感じています。

検察庁法改正案に関するTwitterアクションはひとつの大きな分岐点となりましたが、市民の声が政治を動かし始めた流れは、もう少し前から起こっていたように思います。

新型コロナウイルスの影響下で、ここ数ヵ月、十分な補償と対策を求めるために首相官邸の意見窓口に投稿するアクションが、かつてない規模で広がっていました。
おそらく官邸では、これまでにない数の意見が寄せられる状況が続いているのではないかと思われます。

ご意見・ご感想 – 首相官邸ホームページ

私自身の目に映る範囲でも、ふだんは趣味の話をしているアカウントや、仕事のPRをしているアカウントなど、本当にさまざまな人がタグを呟いたり、関連記事をRTしているのを見かけました。

私は自分の好みで、ふだんからTwitterで好きなアイドルもアニメも政治も分けずになんでも話していますが、SNSの使い方は人それぞれだと思います。
アカウントがその人の人格や生活のすべてではないし、動物の写真を載せる専用のアカウントとか、作品を載せる専用のアカウントもあるように、自分なりにSNSの用途設定があるでしょう。それぞれに「そのための場所」として大切な場だと思うんです。

そういう中で、ふだんは別用途に使っているアカウントの場を使って、声をあげてくれた人もたくさんいるように見えます。
私がお礼を言うのもおかしいですし、直接何か言ったりはしないのですが、自分にできることをしたいと思って「いつもと違う行動」をしてくれた人たちのことを、私はきっと忘れないし、連帯の気持ちと愛をお伝えしたいと思います。

アクションのバリアフリー化

新しいことや語りたいことはいろいろあるのですが、ここ10年くらい頭の片隅で気になり続けていた問題が、いつの間にか解決してしまったことについては、やはり書き残しておきたいと思います。

一市民としてデモや抗議行動に参加する中でも、体力や健康状態、身体障害や物理的要因によって、アクションへの参加が難しくなるという事実に直面することは多かったです。

私自身、適応障害で一年半療養生活を送っていた時は、参加したいアクションがあっても体力的に難しく、悔しい思いをしたこともありました。
どうしても参加したいデモに、不安を押して参加する車いすユーザーにも、幾人か出会ったことがあります。
遠い地域のアクションならば参加のハードルは上がるし、首都圏にいない人は、必然的にチャンスが少なくなります。

アクションの肉体的・物理的ハードルの差異は、ずっと気になっていた問題でした。

もちろんネット上のアクションが、すべてのバリアを取り除くわけではありません。インターネットや端末を使うことが難しい人にとっては、むしろバリアフルになる場合もあると思います。
しかし、車いすの人でも、どこの地域に住む人でも、昨日今日思い立ってすぐ参加できるアクションが広がり、しかも効力を持ったというのは、やっぱりすごいことだと思うのです。

Twitter上で共通のハッシュタグをつけて訴える抗議アクション自体は、かなり以前からあったと思います。
しかし、ここまでたくさんの人が参加したことも初めてだったでしょうし、もし同じだけのツイート数が集まっても、1~2年前ですら、こんなに注目されていたかどうかわかりません。
「Twitterのトレンドに世論の動きを見る」というリテラシーが、一体いつから世の中に根付いたのか、私の分析能力では計り知れません。
いつの間にかTwitterデモができる世の中になっていた。本当に驚きです。

一部の人の頑張りに頼らない、疲弊しないアクション

Twitterデモという形の、もう一つ新しいところは、主催者やリーダーの力に著しく依存していないという点にもあるかと思います。
安保法制の抗議デモで活躍したSEALDsは大きなムーブメントを生み出しましたが、強行採決されてしまったこともあり、その解散後は世間の声も、盛り上がりが潰えてしまったように見えました。
もちろん運動の継続や解散は本人たちの判断で決めるものですし、解散後のことは彼らの責任ではありません。

しかしTwitterデモは、当初多くの人がハッシュタグを発案した人を知らないまま参加していたくらい、「主催者」という観念がない。それはそうです。ハッシュタグなんてそもそも、いちいち作った人を把握するようなものではないのですから。

その後メディアなどで、発端となったツイートをしたアカウント笛美さんの存在も知られるようになりましたが、もしもご本人が何らかの理由で発信することをやめたとしても、Twitterデモから広がった動きを妨げることにはならなかったでしょう。
それは影響力を小さく見ているということでなく、むしろ逆です。一人の頑張りや労力に頼らなくても、アクションそのものが人から人へ伝わっていくという、とてつもない影響力を生み出したということです。

さらに、参加する一人ひとりにとっても多くの場合労力が少なく済むため、アクションの長期継続にも期待しています
国会前に一度か二度駆け付けるだけでも、多くの人にとっては精一杯のアクションだったのに、今は、毎日のようにツイートしている人がたくさんいます。
短期的に盛り上がって、疲弊して消えてしまうアクションではなく、さらなる展望へと広がる新しいアクションの可能性が見えてきたような気がしています。

人と人が触れあうという文化

同時に、インターネットを介してではできない、直接人と人が会って行うアクションというものが、いかに文化的なことかということも、ひしひしと感じる日々でもあります。

リモートでも、それぞれがその才能や技術や思いを発揮して、できることの可能性がさまざまに見えてきたのは、素晴らしいことです。
しかし、一つの板の上で表現を交し合う演劇、空気の振動まで共感し合う音楽セッション、写真では伝わらない生の美術作品の迫力、同じ食卓を囲んで語り合う喜び。
人と人の接触と文化は、なんと密接な関係だったのだろうと、この状況になって思い知らされるようです。

Twitterデモの可能性が開いたのは、選択肢の広がりであり、これによって実際に人が集まって行うデモや抗議行動の意味が失われることはないでしょう。
むしろ、人が集まることで何が生まれるのかという深い分析が、今後さらに進められたら良いのではないかと思います。

政治への意見は「勉強不足」でもいい

最後に、前述のTwitterデモ発案者である笛美さんが、「なぜ素人でも政治の話をしていいのか考えてみました」というnote記事をアップしています。こちらも素晴らしいのでぜひ読んでみてほしいです。

政治に対して意見を言う時には、「勉強不足」ではいけないという風潮がありますが、笛美さんも書かれている通り、政府を企業にたとえるなら、法案は商品(やその広告)、行政サービスを受ける市民は消費者でしょう。

商品の製造工程や構造をよく知らなくても、消費者は使い勝手の良い悪いなど、忌憚のない意見を言うことが、結局は企業にとっても参考となり、プラスになります。
もちろん根拠なく「この商品には毒が入っている」などと、デマを吹聴することはいけません。
でも、知らなかったので「これ使いにくいんだけど」と意見したら、実はその商品にどうしても必要な構造だったとわかることも、時にはあります。
それでもいいんです。その人が「使いにくい」と発信することで、企業も「なぜそうなっているのか」説明を広める機会に恵まれるのですから。

インターネット上で意見を発信することの可能性が、どんどん大きくなってきている現代社会。
「勉強不足」の人でも、勉強してよくわかるようになるまで意見を控えるよりは、どんどん思ったことを言っていった方が、行政サービスの質は向上していくと思いませんか?

文/きっかけ書房 宇井彩野
素材出典/pngtree

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