ジェンダーという“通貨”のようなもの

※トリガー警告
この記事では、トランスヘイトを批判するために、ヘイトや差別発言の中で使われやすい言葉や論説を括弧つきで表記している部分があります。そうした言葉に触れるのもつらい方は、ご注意ください。

エリス・ヤング著『ノンバイナリーがわかる本』では、ジェンダーと性について以下のように書かれています。

生物学的な「性」はいくつもの、時に矛盾する身体的特徴から成っています。一方、「ジェンダー」は、世界中の様々な社会によって概念が異なっていますが、社会からの期待や価値観や行動であるといえます。

『ノンバイナリーがわかる本』 p32

ジェンダー行動が完全に生物学的な性に基づくという学派と(単純であればあるほど因習的な観点だといえます)、ジェンダーは完全に社会によって構築されており性とジェンダーの間には何ら関係がないとする説とを、調和させる方法はないかと、私はずいぶん考えてきました。(中略)生物学的な性とジェンダーの間には何らかの関連があると思いますが、それは単なる因果関係よりももっと複雑なものだと思うのです。

『ノンバイナリーがわかる本』 p34

本書ではこの後に、性とジェンダーの関係を再考する「文化的進化」という説の紹介が続きます。これも私の見解にかなり近く、より学術的に説明されていると感じたので、ご興味のある方はぜひご一読を。

しかしこの「ジェンダーが完全に社会によって構築された」と言ってしまうことへ逡巡は、私も最近よく感じるようになりました。
というのは、トランス差別者の間で「ジェンダーは社会によって形成されるものであるから、生得的な性差は身体にしかない」という言説が、トランスジェンダーのアイデンティティを否定する理由として使われているからです。
しかし私自身は、たとえジェンダーが完全に社会によって形成されたものだとしても、個々のジェンダーアイデンティティを否定する理由にはならないと考えています。

ジェンダーは通貨のようなもの

たとえば私たちは、本来は紙切れでしかない紙幣というものを、価値を交換する道具として日常的に用いています。その感覚はあまりにも浸透していて、多くの人はお札を見れば、ただの印字された紙としての価値ではなく金銭としての価値を自動的に見出すでしょう。
もしかしたら私たちは、生まれた時に身体の性を持っているだけで、その内面に性差はなく、あるのは個人差だけなのかもしれない。けれど、割り当てられる性別とそのジェンダーロールは、紙切れを通貨とすることと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、私たちの生活に浸透しています。

一万円札や千円札は物質なので、割り当てられている価値や役割と自身のアイデンティティが、合っているか、異なっているかという認識を持つことはないでしょう。
しかし人間であるトランスジェンダー当事者が、割り当てられた性別と自分という個人が食い違っていると言った時に、トランス差別者が2つの矛盾する攻撃的主張をすることがあります。

紙幣のたとえを使うならば、一方では「あなたは事実として”一万円札”なのだから、”千円札”や”五千円札”ではありえない」という否定の言葉があります。
しかしまた他方では、「結局は皆、紙切れで、貨幣価値など本来は存在しない概念なのだから、”一万円札”でなく”千円札”だというあなたのアイデンティティも虚構だ」という否定がぶつけられるのです。
こうした主張の末に、「”女らしさ”や”男らしさ”というジェンダー規範はなくすべきものであって、身体の性別ではない”女らしさ””男らしさ”をアイデンティティとしようとするトランスジェンダー(※この解釈は完全に間違いです)は、むしろジェンダー規範を維持しようとしている」という不条理な中傷が行われています。
このような主張は、ジェンダークリティカル(GC)といい、多くのジェンダー研究者やクィア当事者、支援者から批判されています。

染み付いたジェンダーの根深さ

「ジェンダーは通貨と同じくらい浸透していて簡単にはなくせない」ということを言うと、家父長制や、労働や雇用における性差別、”女らしさ”や”男らしさ”を押しつけられるさまざまな性差別を肯定するように捉えられてしまうかもしれません。
私自身、そうした性差別は即刻解消されるべきものと考えています。
しかし、ジェンダーというものはそれだけではなく、もっと根深く、歴史や社会、身体表象に浸透しているもののように思うのです。

2021年に上演された舞台『ジュリアス・シーザー』は、有名なシェイクスピアの同タイトルを、女性だけのキャストで演じるという演目でした。

髪型も服装も「女性装」と見なせるものでありながら、言葉遣いやふるまいによって「男性役」を演じている女性キャストたちの姿は、大きなカルチャーショックを与えるものでした。
(※役者一人一人のジェンダーを確認はできていませんが、公式に「オールフィメールキャスト」と銘打たれた公演だったことに準じて「女性キャスト」と呼んでいます)
私は普段から「女らしい」と言われるようなタイプではありませんし、「女らしい」自己表現をしたいともあまり思っていませんが、それでも身体の特徴が女性であるということ以上に、態度や声の出し方、話し方、立ち居振る舞いによって、自分が「女性になっている」ことを突きつけられたような体験でした。社会性としてのジェンダーが、どれほど自分の奥深くまで染みついていて、拭い難いものかを実感したのです。

この社会でトランスジェンダーであること

しかし私は、いつのまにか体の奥に染み付いたこの女性ジェンダーに、今のところさほど自分自身のアイデンティティとの相違を感じていないため、シスジェンダーであると認識しています。
これまで生きてきた中で「女は女らしくあれ」と言われることや、女性差別に対する怒りや苦しさは、私自身体験してきました。
しかしそれは、割り当てられたジェンダーが奥深く染み付くことすらできなかった、あるいは身に付けはしたけれど「それは自分ではない」という感覚を抱いている(もっと様々なパターンはあると思います)、トランスジェンダーの状況とは、あまりにも種類の違うものです。

資本主義に反対していてもお金を使って生きているように、ジェンダー規範によって苦しい思いをさせられているどんな個人も、途方もなく長い歴史が積み重なったジェンダーという道具を用いる社会と、まったく無関係に生活できる人はいないのではないかと思います。
しかし、「金の価値はそんなに確かなものではない」ことや、「社会を動かしている経済も信用によって株価が上下するような実態のないもの」だということを、知っているか否かで、価値観や視野が大きく変わるように…
社会が規定する男性や女性というジェンダーが、決して絶対的なものでないことを知っていることには、意味があります。

そして、この社会で用いられあまりにも浸透しているジェンダーという道具に自己のアイデンティティが当てはまらない人にとって、トランスジェンダーやノンバイナリーというあり方は、その人の命を守るためのものといっても過言ではないでしょう。
「トランスジェンダーと名乗るよりも、ジェンダーを解体すべき、ジェンダーのない世界を実現すべき」と、今この時を生きている人にぶつけるのは、その人の現在の生活や、抱えている緊急性を理解しようとしない、暴力的なふるまいです。

この記事も、実際に日々危険な状況にあるトランスジェンダー当事者の現実を考えれば、あまりにも他人事然とした語り口になってしまっているのではないかと危惧しています。

それでもこれを書こうとしたのは、すでに凝り固まったトランス差別者に向けてというよりは、そのまやかしの言葉や流布するデマに釣られて、そちらに傾いてしまいそうな人々への危機感からです。
トランスジェンダー差別をめぐる、ジェンダーに関する「議論」や「問題」とされがちな事象について、自分なりに語る必要があると感じるからです。

そして、これから何回かにわたって、私自身の体験も入れながら、ジェンダーについて、人が「性別」と呼んでいるものについて、考えていることを記事にしていこうと思います。

引用出典:『ノンバイナリーがわかる本 heでもsheでもない、theyたちのこと』エリス・ヤング著 上田勢子訳 明石書店 2021年発行
動画出典:PARCO Produce 2021 ”Julius Caesar”・キョードー大阪
画像出典(アイキャッチ):photoAC

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