下から怒ってこう─私たちに人権を─

「怒る」ということについてよく考えています。または、「抗議する」こと、「主張する」こと──つまりプロテストについて。
なぜならそれらが、ある一定の(おそらく日本ではわりと多数派の)人から、大きな拒否感で迎えられることの多いものだからです。
怒りの内容如何ではなく、怒ること、プロテストすることそれ自体を嫌う人は、かなりいる。

最近物議をかもした東京レインボープライド(以下TRP)の共同代表である杉山文野氏の発言も、プロテストすること/する人への拒否感が見られるものでした。

【「プライドフェスティバル」3年ぶりのリアル開催!──「365日、皆が自分らしく生活できる未来をつくりたい」】- VOGUE

杉山 デモ行進という形で世の中に訴えかけることも大事ですけど、「私たちに人権を」というアプローチをとると身構えてしまう人もいて、当事者を取り巻く環境を変えるためにやっているのに、ややもすると当事者と非当事者の分断を生みかねない。でも、ハッピーな要素には人を巻き込む力があります。

「私たちに人権を」というのは、あまりにも基本的な主張。レインボーの旗にも、プライドパレードにも、すべての根幹に「人権」がある。これを主張しないのならば、一体何のためのプライドなのか、わけがわからなくなります。
そんな基本的なことすら「身構えてしまう人」がいて、そんな人に遠慮するのがTRPの姿勢なのかと、疑問を呈さざるをえません。

そして代々木公園で行われたTRPフェスティバルの現場でも、実際に「怒りとプロテストへの拒否」は突き付けられました。

「LGBTQ差別の企業の出展はおかしい」ゲイ当事者が『アクサ』と実行委に抗議【東京レインボープライド2022】 – HUFFPOST

孝則さんは『アクサ損害保険』で自動車保険を更新する際、同性パートナーを配偶者として認められなかったといい、同社が出展する企業ブースの前でプラカードを持って「LGBTQフレンドリーを謳い、TRPの大きなスポンサーとなっている企業が、セクシュアリティによる差別をしていることに、大きなショックを受けました」「TRP実行委員会にも、どれだけ当事者に対する取り組みを進めているかなど、LGBTQコミュニティへの貢献度をしっかり見て、スポンサー企業の選定をしてほしい」などと訴えた。

TRP実行委員会は、「スポンサーへの妨害行為があった」として警察に連絡。警察官は「抗議活動は問題はない」と判断した。

プライドイベント内で同性愛者差別に抗議したら警察を呼ばれたというあまりにも本末転倒な今回の出来事に、ショックを受ける声は多数聞かれました。しかし、実はTRPにおいて運営側が警察権力を用いて参加者を排除する事態は、イスラエルのピンクウォッシュ抗議に対して以前から起こっており、今回のことと合わせてそれを指摘する声も上がっています。

……皆さんの目には、この「怒る人」「抗議する人」の姿が、どのように映ったでしょう。

※4月27日、この事件に関するTRP側からの見解が示されました。
一部報道について | 特定非営利活動法人東京レインボープライド
筆者としては、至極まっとうな抗議の意図がよくわかるプラカードを掲示した個人への対応として、やはり違和感は拭えません。
警察官が話を聞いて問題ないと判断できたのに、よりLGBTQ+の運動を理解しているはずの運営スタッフが、その判断をできなかったのか疑問です。

「怒り方」にルールはあるか

さて、「怒る」ことについてよく考えているのには、もうひとつ理由があります。

「トーンポリシング」という言葉を知っている人もいるでしょう。
詳しくは以下の記事にわかりやすく説明されているので紹介します。

中立的な立場に見える「トーンポリシング」に騙されない!モバプリの知っ得! – 琉球新報style

例えば、痴漢被害にあった女性が「痴漢するオヤジ、ぶん殴りたい!」と怒っている場合に、「痴漢にあったことは可哀想だと思うけど、そんな汚い言葉を使うのはよくないよ」と「言葉」を取り上げて評することがトーンポリシングです。

私自身も、トーンポリシングは論点ずらしの卑劣なやり口であると認識しています。しかし、最近いくつか「その怒り方は違うんじゃないか」と思ってしまう事例に出会うことがありました。私はそのたびに、「これはトーンポリシングとはどう違うのか」と煩悶しました。

実際にそれがどういった場合かというと、

  • 相手のジェンダー、外見、疾患、人種民族等を中傷する形での怒りの表現
  • 「自分より得をしている」「ずるい」という感情からの怒り
  • 相手を見下し、マウントを取る形での怒りの表現

1つ目は、たとえカウンターだとしても個人の特性に対する誹謗中傷は許されないということで、わかりやすいと思います。

2つ目については、怒りの矛先を間違える原因としてよくこれがある気がしています。

差別や抑圧への怒りは、その抑圧のシステムを決定している人へ向けられるべきですが、多くの場合そんな権力を持っている人は、自身の姿をなるべく現さず、他に怒りが向くよう誘導します。

怒りを他に仕向ける常套手段が、一部に特権を持たせ、立場を分けることです。差別への怒りが「あの人たちだけ得をしていてずるい」という形になってしまうと、会社のトップに怒りが向かず、雇用形態の違う社員同士が戦い合うことになってしまう。

上記のように会社での例はわかりやすいですが、ジェンダー差別や人種差別になると、システムを決定しているマジョリティと、そこから抜け出そうとしてもできないマジョリティの判別は、より難しくなってきます。
怒りを抗議の声に変える時に、そこに「あいつらはずるい」という気持ちが入っていないか、省みることも必要かもしれない…と最近よく考えるのです。

3つ目は、とあるドラマを見ていて感じたことです。それはNHKで放送していた『恋せぬふたり』というドラマです。

ドラマの中で、アロマンティック・アセクシュアルの高橋が恋愛至上主義な人々の言動に対して、怒りの気持ちを吐露するシーンがたびたびありました。この怒りの内容はもっともであるにもかかわらず、私はその表現の仕方に抵抗感を抱いてしまったのです。

高橋はいつも、凝り固まった考えの人たちに呆れたようにため息をつき、どうせ理解できないのだろうと言いたげな、諦めの口調で語ります。

でもこの私の「怒り方に対する抵抗感」は、トーンポリシングではないのか?…自分自身わからなくなりました。

しかし、あることに気付いた時、抵抗感の理由がわかった気がしました。高橋の怒りに対して最も萎縮し、いつも高橋のジャッジに適うかどうか恐れているのは、同じアロマンティック・アセクシュアル当事者の咲子なのです。

この高橋という人物は、批判しようとする相手に、上からの立場でものを言おうとしている。それはもしかしたら、自分が見下され、蔑視されることへの彼なりの防御なのかもしれません。
しかしその方法がより効果的に働いてしまうのは、その場で最も弱い立場の人間…つまり、同じ当事者である咲子が萎縮してしまうという矛盾が生じている。

これはドラマなので、こうしたパターンが実際によくあることなのかはわかりません。

しかし、「差別されたくない」と思った時に、「下に見られないようにする」という方法を取ってしまう人は、けっこういるように思います。

ここで「私たちに人権を」というアピールすら「分断を生みかねない」というTRPの姿勢について思い至ります。
これもまた、「見下されるかわいそうなマイノリティではない」「むしろ大企業を味方につけられる強者だ」と見せたいという思いからきているのではないでしょうか。

下から怒ること

「下に見られないようにする」という差別への抵抗は、場合によっては有効かもしれませんが、それができる個々人がその場での差別を免れるというだけで、差別そのものの解消にはなりません。

強者と弱者を生み出すシステムそのものに抗議するためには、自分が強者になる必要はない。むしろ弱者の立場のまま、間違っていることにまっすぐノーと言うことが大切なのではないでしょうか。

そうしたことを考えた時、浮かんでくるのは、TRPの会場で抗議のプラカードを掲げた人々の姿です。
強者の立場になって、上からものを言えるようにならなくても、どんな人にも当たり前にある権利としてただまっすぐ怒る人々の姿です。

素材出典:Pngtree

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