需要とウイルスと推し

「需要と供給」は、いまや経済以外の場面でもよく使われる言葉です。
「誰かが何かを必要としていて、それを満たす働きをする」ということは、何一つ間違っていない、良いことのように思われます。しかし現在、世界経済の低迷が続いているのは、一説によれば「総需要の不足」が原因だというのです。

人々の必要を満たすことが「需要と供給」のはずなのに、需要が少なくなったら経済が行き詰まってしまうって、それってなんだか本末転倒なのでは…??

資本主義経済とウイルス

こういうことを考え始めたのは、本の執筆のために、資本主義経済について調べる必要が出てきたためです。

本サイトikinobiは、ひとり出版社「きっかけ書房」のウェブメディアなわけですが、この「きっかけ書房」は一冊の本を世に生み出すために設立した個人事業の出版社です。
その本とは「若者」と「現状をシェアすること」、「アクションを起こすこと」をテーマにしたガイドテキストのような内容なのですが、その中でどうしても資本主義経済について解説を書く必要が出てきました。

これまで、折に触れ少しずつ情報を入れてはいたけれど、解説を書くとなると話は別。慌てて参考書籍を読み漁り、なんとか平易な言葉でまとめようと苦戦しながら、私自身の思考も、さらに新しい段階へシフトされるような新鮮な感覚がありました。

需要も供給もずっと右肩上がりに成長し続けることが、資本主義の原理ならば、やはりそれは、元から不安定なものだったと考えるしかないのかもしれません。

それは、新型コロナウイルスの影響で外出自粛や企業の休業が要請され、経済活動が縮小している現状において、皆さん自身がまさに今、実感するところなのではないでしょうか。

ウイルス感染を抑え込むには、経済活動は最小限にせざるをえない。しかし、経済活動ができなければお金が稼げなくてみんな生活が苦しくなってしまう。
この状況下で、お店や製造元に余った物品や食材が、通販で出品され、協力として購買を推奨する声もよく見聞きします。しかしそれによって、通販を支える物流業の人々は活発に動かざるをえなくなるというジレンマもあります。

「困っている人に協力したい」、「みんなのために少しでも自分にできることをしたい」という善意を持つ人たちの中には、「自粛しよう」「経済を回そう」という2つの矛盾するメッセージに、気付かないまま翻弄されている人も多いのではないでしょうか。

ウイルス蔓延の危機は、今を乗り越えたら二度と起こらないといえるものではありません。それだけでなく、経済の縮小がやむをえない事態は、災害や環境破壊、国際政治などさまざまな原因によって起こり得ます。
政財界やマスメディアではすでに「いつからどのように経済を回復させるか」という論議が始まっていますが、「経済を回すことは、いつどんな時も可能なことではない」という認識の上に立って、新たな社会体制を考え直さなければならない時が来ているのではないでしょうか。

すでに起こっていた経済危機

それは、需要を満たすための資源(たとえば石油)が、消費を増大し続ければ枯渇してしまうという事実からも明らかです。
経済体制が変わらなければ、深刻な環境破壊は防げないということは、近年の学生を中心とした気候デモにおいても訴えられ続けていました。

また、 情報技術の発展も、資本主義とは矛盾するものなのかもしれません。 インターネットの普及によって、お金を出さなくても情報や映像、音楽などが手に入れられるようになったことを、多くの人が実感しているのではないでしょうか。

ストップ映画泥棒と、法律やモラルによってコンテンツの無料流出を防ごうとすることも多少はできるでしょう。また、広告収入や仮想通貨などで、情報技術と貨幣経済をなんとか結び付けようとする業界もあります。

しかしそれだけで抑えられる「コンテンツ無料化」の流れは、経済全体を見れば限定的でしょう。産業革命時代のような、形ある「物」をどんどん生み出して、どんどん消費するという大衆の行動に頼った経済体制は、今の社会に確実に合わなくなっている。
資本主義の危機は、今や世界の多くの経済学者も、共通認識するところとなっているのです。

「需要あるの?」のその先に

ここで急に推し(※ファンである、応援している芸能人やキャラクターなどのことを「推し」と呼びます)の話なんですが。

私がウエンツ瑛士さんの長年のファンであることは、有名な話なのでわりと知っている人は多いでしょう(?)。
一年半芸能界を休業し、ミュージカルの勉強のためにイギリスに留学すると発表した時は驚きましたが、ファンとして誇らしい決断でもあり、復帰する2020年4月をずっと待ちわびていたので、帰ってきてたくさんその姿を見られる日々は、嬉しいばかりです。

私はしつこいタチのファンなので、推しの名前をTwitterなどで検索する「パブリックサーチ(略してパブサ)」を頻繁にします。
ファン以外の人にも褒められているのを見たいがためなのですが、テレビやメディアにたくさん出ている推しなので、けなされ悪口を言われている場面にも、わりと遭遇してしまいます。(でもやる)

そんな中、最近あるワードが目に付くようになりました。

「ウエンツって需要あるの?」

これ、検索するたびに必ず目にするくらい複数の人が言っているんですよ。
まあその5倍くらい褒められているのでいいんですが(笑)、社会に暮らす人たちの、普通の感覚として「需要あるの?」という言葉が出てくるんだということに、はっとさせられたのです。これは資本主義の呪いではないかと。

芸能人といえど、尊厳を持ったひとりの人間に対して「需要のあるなし」で測ることを、テレビのディレクターや芸能事務所の社長でない人々までもが、してしまう。
でもこの感覚は、特別意地悪な人や、ハラスメント気質の人ばかりが持っている感覚ではないように思うのです。
たとえばリベラル志向の人でさえ、ヘイトスピーチを繰り返すワイドショーの司会者に「こんな司会者、需要ないだろ」と言ってしまうことってあるんじゃないでしょうか。

しかし言ってしまえば、現代は総需要が不足している世界なので、どこのどんな芸能人でも、もしくは芸能人でもない、さまざまな職場で働く私たちも、「需要ない」と言われてしまう可能性はあるのです。

私たちは仕事をするとき、「需要のあるなし」を常に気にしていなければいけない、と思わされてきました。
でも、その流れに完全に飲まれてしまうと、人気のない伝統文化は消えてしまってもいいことになり、ずっと借りられていない図書館の本は処分されることになってしまうわけです。環境破壊は、たった今の社会や人や経済に影響がなければ、放っておいても良いことになってしまうわけです。

「需要」とは呼ばれない、経済の世界では透明になってしまう「必要なもの」を守る社会でなければ、やがては人の命まで需要のあるなしで切り捨てられるようになってしまうのではないでしょうか。
そしてそれはすでに、今の新型コロナウイルス対策において表れています。経済中心の価値観に支配され、政治は経済対策よりも人命を優先する政策を打てなくなってしまっています。
さらにいえば、もっと以前から私たちの社会は、貧困者が福祉からも見放され栄養失調で亡くなるような社会になってしまっていました。

私の推しことウエンツ瑛士さんは、仕事という経済活動を休止して、夢や勉強というお金にならない価値に一年半を費やしました。世間には、「その経験が、帰国してからお金を生み出すことにつながらなければ無駄」とする価値観も、根強くあります。
でもたぶん本人は、留学を決断した時点で、そういうことを超えた先にいるんじゃないかなあ、と思うのです。これはウエンツさんに限らず、海外に行ったり、夢のために勇気のいるチャレンジをする人は、ほとんどみんなそうなのではないか、と。

帰国したウエンツさんは、最近Instagramで毎晩9時に、15分ほどのライブ配信をしています。
ただその日あったことを視聴者と報告し合い、働いている人も自粛している人もねぎらい、まったりとおしゃべりするだけの時間。収入になるわけでもなく、視聴者を増やすために特別なことをしようとする企図もありません。目的はただ、「みんながちょっと元気になればいいな」と思ってのことだそうです。
経済の観点で見れば、これは「仕事」ではなく「趣味」の活動と呼ばれてしまうものかもしれません。

「需要を増大させ、売上をアップさせなければならない」という需要と供給のあり方ではなく、「必要としている人が一人でもいるならその人に届くように」作られ、マネタイズもされない、ささやかな需要と供給。
こういうものが、お金を生み出すものにはならなくても、淘汰されないように最低限底支えされるような、新たな社会が必要なのかもしれないなあ、などと考える最近の日々です。

文/きっかけ書房 宇井彩野
素材出典/pngtree

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