まずは、愛ちゃんのこと
2023年、自分にとって大きな出来事といえば、やはり「愛ちゃん」でした。
本当にありがたいことに、拙著『愛ちゃんのモテる人生』が氷室冴子青春文学賞を受賞したのが11月のこと。
昨年明けたばかりの1月、私は応募予定のBL小説の賞に間に合わせようと、必死で執筆していました。そう、『愛ちゃんのモテる人生』は元々BL小説として書いていた作品だったのです。
結局BLの賞では箸にも棒にもかからず、しかし私の中には「これが世に出ないのは嘘だろう」という思いがありました。
もし賞という形ではダメでも、何らかの方法で、何かのツテで、どうにか世に出すすべを見つけたい、とまで思っていたのです。まったくその当てはないにも関わらず。
しかしちょうどそのタイミングでこの氷室冴子青春文学賞があり、ひとまずこれに応募してみようと思ったら…まさかの大賞受賞。
私自身が感じていたのと同じように、「これが世に出ないのは嘘だろう」と感じてくれた人が、審査に関わった方たちの中にいてくれたのかもしれない…と思うと、通じ合えた想いに感謝しかありません。
しかし何よりの衝撃は、授賞式で出会った人たちが、「愛ちゃん」を本当に存在しているかのように語っていたこと。
私にとって、愛ちゃんはずっと実在していました。けれど、愛ちゃんが本当にいることは、これまで私しか知らなかったのです。
賞を取った今なら、この小説が届くであろういろんな人たちのことを思います。現実にいる、愛ちゃんみたいな子たちの希望になってほしいな、と願っています。
しかし執筆している時点では、そんなに多くの人に届くことは、当然想像できていませんでした。
私はおそらく、ただ私の中にいる「愛ちゃん」のために書いていたのです。
もしくは太良のために、ふみのために、かみゆのために。
ただ彼らを生かす物語が、私自身のために必要だったから。
だから愛ちゃんは私にとって、本当にいる友達のような存在です。
それは執筆時点では、私だけのことだったけれど、授賞式で行った岩見沢で、たくさんの人が言うのです。「愛ちゃんが」と。
「愛ちゃんはこういう時どうするだろう?」
「愛ちゃんのこういう姿も見てみたい」
愛ちゃんはもう、私以外の人にとっても、本当にいる友達のような存在になっている。
そのことに何より震えました。
きっとこの先この作品が世に出たとき、愛ちゃんの友達はもっと増える──愛ちゃんはそういう子なのだとわかっています。現実にいるたくさんの子たちの友達にならなければいけない存在なのだと。
読んだ人それぞれの語る愛ちゃんは、少しずつ私の理解している愛ちゃんと違うかもしれない。けれど、それも愛ちゃんの真実の姿の一つなのだと思います。
それぞれが語る愛ちゃんは広がっていき、きっと私自身の想像も超えていく。
私は「物語」というものの計り知れない可能性を信じています。それは作者の意図など軽く超えるものだとも思っています。
物語の真価は、作者以外の人の手に渡り、人の数だけその物語の真実が生まれた時に、本当に発揮されるはずだと。
『愛ちゃん』は元々BL小説として書いていたと前述しましたが、私自身はBL作品とクィア(LGBTQ+)作品に垣根はないものと考えています。だからこそ、これをBLとして世に出したかったのです。
しかし氷室賞で一次審査を担当してくれた方も、最初から「これは新世代のBLだ」と言ってくださり、最終審査でも評価が割れる中で、「これはBL小説なんだ」という理解が授賞の決め手の一つとなったと教えていただきました。
それってもはや「BLとして世に出た」と言っていいのでは!?と都合良く解釈して喜ばせていただいていると同時に、こういう評価の仕方をしてくれる賞はなかなかないのでは、とも思います。
自分の作品がジャンルの狭間だったり、ポリティカルすぎて評価されにくいかも、と思っている人は、氷室賞出してみるといいかもよ…とか、言えるほど内実わかってないんですけどね、私。
でも、情熱と真心ある方たちが作っている良い賞であることは、確かじゃないかな、と思います。
問われ続ける「BLファン」
さてBLに関しては、昨年末にもちょっと物議を醸した記事がありました。
この記事の批判を目的とした文章ではないのでこれに関する詳しいことは省きますが、今私が問いたいのは、BLを語る時、なぜBLそのものではなく、いわゆる「腐女子」(これはもうあまり使うべきではない言葉です)と呼ばれる「BLファンの女性」を分析し、語ろうとしてしまうのだろう?ということです。
ホラーだとかアクションだとか、特定のエンタメジャンルのファンに対する、「〇〇ファンになる人の心理」とか「〇〇好きの女性/男性の性格」とかいう話題はBLに限らず至るところにあります。
しかし、それらが遊び半分の心理テストのような与太話であることは、もう少し一般に理解されているような気がします。
そもそも、何かのファンになった人たち全員に共通する「原因」や「心理的要因」など、まともな研究結果として出せるはずがありません。できるとすればアンケートの統計を出すくらいのことでしょう。
けれど、こと「女性がBL作品を好む」事象に関しては、たった一人のファンが言ったことをBLファンの真実かのように扱い、その不十分なデータで心理分析されることが、30年近く繰り返されています。
ファン自身が不確かな自己分析をBLファンの総意として提供してしまうことも多く、今回の記事もその類のものといえるでしょう。
そこには、女性がBLを好むことに「何らかの言い訳をしなければならない」という思いがあるのかもしれません。
しかし、素晴らしい作品を好きになるのは当然のことであり、読者の側の境遇や精神状態を理由にする必要などないのです。
だからもっとBLの話をしよう
ファンが作品を語ることは、本当に抑圧されてはいけない大切なことだと思っています。
作品語りにはさまざまな形があり、評論やレビュー以外にも、ファンアート、二次創作、布教シートやまとめ動画などの形態も出てきています。Twitter(X)の投稿やスペースで実況する人も増えていますし、ファン同士が集って語り合うだけでも大きな意味があるでしょう。
前述した通り、私は「物語の真価は、作者以外の人の手に渡り、人の数だけその物語の真実が生まれた時に、本当に発揮される」という信念を抱いています。
だからこそ、BL作品について語る時に、BLであるということに言い訳したり、他のBL作品と切り離そうとしたりする態度を見ると悲しくなります。
その態度自体を批判すべきというより、BL作品を堂々と語ることが抑圧されてきた、その結果のように思えるからです。
この年明けにも、世界にはつらいことや惨いことがたくさんあり、私自身この数ヵ月、心のどこかが少し元気のない状態でいます。同時に自分の中のまだ元気でいられる部分を大切にしないと、とも思っています。
人が人に信じられないほど残酷になる時、災害の中で誰かが見落とされる時、差別は大きなファクターとしてそこにあります。
だからこそ、自分が元気でいられるために必要な、好きなものを語ることさえ差別に侵食されていたら、だめじゃないですか。
平和は、差別のないところにしかありえないのだから。
それよりもっと、作品そのものについて語ろうよ、と思うんです。
その作品の良さ、批判すべき点、解釈が分かれる点や、疑問点。自分なりに理解した登場人物の思い、自分の体験と重なったエピソード、描かれたことの社会的意義…。
作品とまっすぐに向き合って語るべきことは、いくらでもある。そこに「BLを好きであることへの言い訳」なんて、差し挟む必要はない。
だからもっとBLの話をしよう。
と言いたいわけです。
2024年初めの私の提言はコレです。
…いや、いろいろ言いましたけどBLの話するの、めっちゃ楽しいんだもん。一番楽しいと言っても過言ではない。
そういうわけで、今年も皆さん、たくさんBLの話をしましょうね。