先週の一冊『シモーヌ vol.1』

“雑誌感覚で読めるフェミニズム入門ブック“『シモーヌ』の記念すべき第一号。

巻頭には、KuToo運動で活躍中の石川優実さんのヌードグラビアが掲載されています。このグラビアが、個人的にはなんとも良いクエスチョンになりました。

見た瞬間、レズビアンとしてセクシャルな意味で「とってもいい❤」と思う感覚がありました。(これを表明するのは今回の表現のリテラシーとして的外れな読みではないと判断してのことです)
それと同時に、「フリー・ザ・ニップル!」とエンパワーされる気持ちも湧き起こりました。
この2つの感覚は私の中でどちらも嘘がなく、そのことに自分自身、戸惑いを覚えました。

しかし、よく考えてみれば服を着ていても人が人を性的に「とってもいい❤」と思う感覚は、いくらでも起こりうることです。
その気持ちはいつでもどこでも表明して良いものではありませんが、感覚を持つこと自体には善も悪もありません。
そして、他者から性的に見られても、体を隠さなければならないわけじゃない。道行く人が指差して「エロい」と言ったとしても、関係なくミニスカートを穿きたいときもあるように。

以前の記事(素晴らしい魔女になるために)で「セクシーの罠」ということについて書きましたが、石川さんはグラビア女優として「セクシー」に見える活動もしつつ、声を上げ行政に働きかける「セクシー」に見えない活動もしています。
しかしそれは、「結果的に他者からそう見える」ということでしかない。ただ人は、自分の思いを実現しようと、生きて活動しているだけなのに。そんなことを思いました。

さて、『シモーヌ vol.1』の特集は「シモーヌ・ド・ボーヴォワール」です。
誌面の前半は、ボーヴォワールに関する特集記事、後半はフェミニズムに関するさまざまなエッセイとなっています。

雑感としては、前半の文章の堅さと後半のエッセイの柔らかさのギャップが激しいな、と。
わりと雑誌一般においては、特集記事の方がページごとの文章が少なく読みやすく、後半の記事は多少読み込みが必要な文量になっていることが多い…と感じているのですが、この『シモーヌ』は逆です。

そのために前半で挫折してしまう人がいるかも…というのが少し心配なところですが、前半の特集記事と後半のエッセイを交互に読んでいくくらいが、ちょうど良いかもしれません。

なんにせよボーヴォワールの入門編としては、とても役に立ちました。これを参考に、読んでみたいボーヴォワールの著書も見つけられる良い手引きです。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ。」と書いたボーヴォワールは、私が生まれた一年後にこの世を去った。
彼女の言葉がいまだ常識となっていない日本の現代社会に生きる私は、何ができるのか。

ところで北村紗衣さんの「シモーヌのBB、スタイネムのマリリン」というエッセイが、非常に面白く感銘を受けたのですが、改めて読み返すと、これも「セクシー」に関する文章でした。

「セクシーな女性をバカ扱いする風潮に反対してきたのはフェミニズムだ。」
そう、「セクシー」は大衆にわかりやすい魅力であるとともに、バカにされやすい要素でもある。
その辺に関してももう少し突き詰めて論じてみたいなあ、と思いました。

それにしても、女性が女性を、自分の憧れのヒロイン(「セックスシンボル」)としているという事象に、わたしはいつもグッときてしまいます。

憧れのあなたのセクシーさが大好き。だけど、セクシーじゃないあなたがいることも、同じ女としてわかっている。だからこそ愛している。

素材出典:pngtree.com

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