宇崎ちゃんポスターへの批判は「過剰反応」なのか

今年の6月、とあるワークショップで「差別」について話すことになり、私はその準備として、街に出てたくさんの写真を撮りました。
個々の言動よりも、すでに街中に、社会に、制度の中にある「誰かが生きることを阻害する不均衡」=「差別」があるというところから考えたいと思ったからです。

段差や傾斜のある歩道、ぶつかり合いそうな人ごみ、右手仕様の改札機などを撮影すると同時に、私はたくさんの広告の写真を撮りました。
街を歩くだけでどんな社会的メッセージにさらされているか検証するのに、広告は良い材料だと考えたのです。

撮りながら、私自身驚きました。
以下がワークショップの中で実際に使ったスライドの一部です。

圧倒的に、数として「女性の写真」の広告がこんなに多いと、私も撮影するまでは気付きませんでした。

また、そこに写る女性たちが皆、その「美しさ・かわいらしさを見せる」という意味でしか広告の中で用いられていないことも気になりました。
あるものは、女性がなりたいと憧れる対象としての「美しさ」。あるものは、性別を限定しない商品のイメージをなんとなく良くする「美しさ」。あるものは、男性ターゲットに癒しや励ましを与える「美しさ」。

一方で、男性表象の広告には、容姿の良さだけではなく、「面白いキャラクター」または「知的なキャラクター」として登用されているような表現もいくつか見られました。

積み重ねられるメッセージ

同じワークショップの中で、「すでに差別構造がある社会で、私たちがどんな支配力をふるってしまう可能性があるか」ということについても考えました。

いくつかの例の中で、次のようなスライドを提示しました。

この時、1の例に対して参加者の女性たちからは、「気持ち悪い!」「こんな会社に勤めたくない!」という反応がありました。

確かに、こんな会社があったら気持ち悪い。

でも、私たちは普段、こんな風景の中に暮らしているのではないでしょうか。そしてそのことに気づかないくらい、当たり前に受け止めてしまっているのではないでしょうか。

例題には「女優やアイドルなどの写真」とだけ書いており、特段セクシャルなものとは書いていません。
提示した図像も、私が街で撮影してきた広告ポスターを集めたもので、ひとつひとつは公共の場にあっても問題のない広告イメージです。

ひとつひとつは問題のないものであっても、同じ方向性のメッセージを重ねることによって、誰かに対しての抑圧や加害となることはあります。
この場合は「美しい女性」というイメージが、「女性は容姿の美醜を常に見られるもの」というメッセージの積み重ねとなっているといえます。

「過剰反応」?

このワークショップについて、改めて語ろうと思ったのは、日本赤十字社の献血ポスターの話題からです。
『宇崎ちゃんは遊びたい!』という漫画とコラボしたものだそうですが、モデルになっているキャラクターの「大きな胸」を強調するような構図とデザインが、献血という公共性の高いPRのための表現として相応しくないと、批判が集まっています。

この批判に対して、過剰反応だ、フェミがオタクに因縁をつけている、何でもかんでも女性差別にこじつけて文句を言っている、といった反論も起こっています。

でも私は、日頃街中で発せられる「女性は容姿の美醜を常に見られる」というメッセージに耐えている人々が、「これはさすがにやめてほしい」と声を上げたことに対して、過剰反応だなんてよく言えたものだと思ってしまうのです。 

「他の広告と変わらない」?

批判者への反論の中には、この「宇崎ちゃんポスター」を、私が撮影したような女性タレントの広告イメージと変わらない表象として捉え、「なぜこれだけが性的と言われるのか」「オタク差別ではないのか」「下着広告の方が性的じゃないのか」と言う声もあります。

それに関しては単純に、表現をまじめに見ていなさすぎるのではないかと思います。

この絵は元々コミックスの表紙イラストだそうですが、コミックスを手に取ってほしい特定の層に向けて、キャラクターの胸を大きく性的に魅力的に描くために工夫を凝らされた表現だということは、この漫画を知らない人間でも見てわかります。
そして、そういう表現を好む層に向けて工夫を凝らしてこのイラストを描いたこと自体は、作者のクリエイティビティとして肯定されるべきことです。

作者のクリエイティビティを否定してまで「他の広告と変わらない程度の表現だ」と曰うことが、自分の好きなジャンルに対してまじめに向き合う態度とは思えません。

「日常のメッセージ」と「許容範囲を超えるメッセージ」

しかしこの場合の「作者のクリエイティビティ」は、日頃、嫌というほど「女性は容姿の美醜を常に見られる」というメッセージに晒されている人たちにとって、日常に入り込むことを許容できる範囲を超えていました。

ある人たちにとってはこのイラストは「かわいい女の子の大きなおっぱいっていいよな」というメッセージでしかないでしょう。
しかしそれが公共の場に置かれた時、ある人たち(最初に指摘した方が男性だったように、それは女性だけとは限りません)にとっては「女はいつもおっぱいを見られている」という脅威のメッセージとなります。

どちらのメッセージを受け取る方がえらいわけでも、邪悪なわけでもありません。
ただ、どちらにせよ「献血への協力を募る」というメッセージではない、不要なメッセージが強すぎることは確かでしょう。

その強すぎる不要なメッセージを拒否したい人がいることが、本当に過剰反応といえるのか。

背景にある、日頃から発せられている社会のメッセージも加味して考えてみてくれる人が、少しでも増えることを願います。

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