ウイルス、憲法、分断と未来

※こちらは2020年4月17日に政府から一律10万円の給付案が発表される以前、4月11日時点で書かれた記事です。

いつも「生きのびることへの危機感」を持っているから、このコラムサイトの名前を付ける時、ikinobiという言葉がすぐに浮かんだのだと思います。
しかし、こんな形で、世界的・全市民的な規模の「生きのびの危機」に面することは、想像できていませんでした。

本サイト内では、新型コロナウイルスの影響によって経済的危機にある人向けに、補償関連の情報をひたすら集めている記事を随時更新しています。以下URLから見られます。
生きのびるために、受けられる補償と求めるべきことのまとめ

専門家のように、詳しい解説はできませんが、さまざまな方面から情報がバラバラに出てくるので、それぞれが取れる手段を探しやすくするために、とにかく得られた情報をすべてここにまとめていこうとしています。

憲法という「救いの手」

上の記事を作りながら、だんだんと見えてきたことがあります。

それは、国が新型コロナウイルス対策として新たに創設した支援はほとんど、かなり対象が絞られているか、貸付制度であること。
貸付制度は、「ある程度回復できる見込みがある上で、一時的に困窮している人」には有効かもしれませんが、新型コロナの蔓延がいつ終息するか見えない状況で、経済状況の回復の目処があると言える人の方が、少ないのではないでしょうか。

そしてもう一方で、新型コロナ蔓延以前から元々ある生活困窮者のための制度や、それが今回拡大されたものは、新規の制度に比べれば、わりに使える人がいるのでは、と感じました。
その中でも最も基本的な制度は、生活保護制度です。

生活保護制度は、日本国憲法第25条の定める生存権 (すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する)に基づく制度です。

ここにきて思うのは、政府が福祉カットを年々進めてきた中で、日本社会を人権に基づく社会たらしめることは、憲法によってかろうじて保たれていたのか、ということです。
生活保護も、その運用においては、受給希望者が厳しい調査や管理のもとに置かれるなど、さまざまな問題があります。それでも比較すれば、ふるい落とされる人が少なく見えるほどに、コロナ対策の新制度の条件は、非現実的です。

政府与党は今、「緊急事態」にかこつけて改憲論議を強行しようとしています。
しかし、この「緊急事態」の中、現行の政府が対応できていないところに、憲法に基づく制度が救いの手となっていることは、見逃してはいけないのではないでしょうか。

〈援助を受けるべき人〉の分断

ところでこの生活保護制度に関しては、以前から世間の偏見が根強く、受給者バッシングもたびたび起こっています。
国会の場で議員がバッシングすることすらありました。

こうしたことから、世間一般に、自分では生活を賄えなくなり行政の援助を受けるということは、「普通の人」の「普通の営み」ではないことのように思いこまされてきました。

ところが今、新型コロナ危機によって経済のほぼすべての分野が壊滅的な打撃を受けています。
援助が必要な人は、特殊な「一部の人」ではないことを、多くの人が実感する事態となりました。
経済、社会、防疫といった、各方面の専門家からも、すべての個人に一律の給付金の支給が妥当との見解が出されています。

〈援助を受けるべき人〉が日本に住む全市民に広がった。
これが現在の社会の、真実の姿ではないかと思います。

しかし政府が示している見方はいまだに、「〈援助を受けるべき人〉は一部である」という方向です。
これは、真実がどうであれ、今の日本政府として、曲げることのできない「方針」のようなものではないでしょうか。

安倍総理も4月7日の緊急事態宣言発出の会見で、給付金に関する記者の質問に、「 本当に厳しく収入が減少した人たちに直接給付が行くようにしていきたい 」と答えていました。

「本当に困っている人」「本当に厳しい状況の人」
この「本当に」とつくところが、ある意味ポイントなのでしょう。
「本当に困っている」ことを見定めるために、政府は、個人給付には「住民税非課税」だとか、事業への補償には「前年比50%以下」だとか、線引きの基準をいろいろと打ち出しています。

したがって、この基準に当てはまらない人々は、「本当には困っていない人」とされることになります。「そのくらいで困っているなんて嘘なんじゃないか」と突きつけられることになるわけです。

極端な言い方と思われるかもしれませんが、これは、今までにも生活保護受給申請を断られた人たち、または受給しながらも監視に晒されている人たちが、突きつけられてきた視線です。

でも、私たちはもうすでに知ってしまったはずです。
今、ほとんどすべての人が困っている、悩まされている、苦境に立たされていることは、紛れもない真実であるということを。(実はそれはもっと以前からなのかもしれません)

これまで実感していなかった多くの人も、 〈援助を受けるべき人〉を見定める条件を厳しくすることは非現実的で、残酷なふるまいであるということを実感するようになったのではないかと思います。

私たちは、これからどちらに進むのでしょうか。
この大きな危機に際しても、分断政治に誘導され、さらに互いへの監視と差別構造を深めることになるのか。
それともここで、民衆が偽りの理論によって分断されていたことに気づき、差別を克服できるのか。

「今、試されている」という言い方は、適切ではないかもしれません。
本当は、この危機を迎える前からずっと、私たちは、より良い未来を選べるかどうかを試されていたのではないでしょうか。

文:きっかけ書房 宇井彩野
素材出典:photoAC

Please follow and like us:
error