【国際女性デー】委縮しない身体のために

3月8日、今日は国際女性デー。今年の国際女性デーに合わせて国連広報センターがアップしたUN Womenのプロモーション動画があった。

この動画を見ながら、私はここに映る女性たちが、いまだにこの世界では「男のように振る舞う女」に見えるのではないか、ということを考えていた。

職場で、政治の場で、抗議アクションの場で、女性たちはいまだに「男性をスタンダードとする場に混じる異質な身体」のように、多くの人の目に映っているのではないか?
女の表象、女の体をした人が、声を荒げて叫んだり、拳を振り上げたり、マイクの前で胸を張って堂々と話している姿は、やはりまだこの世界において「少し変わった、異質なもの」なのではないか?

どのように語ればこの感覚が正しく伝わるのかわからない。私は、やっぱりいまだに世界はMAN’S MAN’S MAN’S WORLDなのだ…と、今感じている。

フェミニストを「なりたくなかったあれ」と呼び、これまでのフェミニズム運動よりも”理解されやすい”ジェンダー平等を主張した記者も、それを擁護した同業の女性たちも、もしかして自分自身をMAN’S MAN’S MAN’S WORLDの中に混じる異質なものと感じながら、仕事をしているんじゃないかと想像してしまう。

「女なのに男の中に混じっている奇妙な身体」として、自分自身や他の女性たちを見ているうちは、まだ私たちは萎縮した身体のまま社会に参加している。
その萎縮した状態を「わきまえる」ように私たちは教育されてきた。それが女性の「社会参加」のあり方なのだと。

件の国際女性デーにおけるメディア連携企画では、ステートメントに「誰もが性別に関係なく尊重され」と掲げられ、「女性」という言葉が本文に登場しなかったことも批判された。

まあ、女性デーなのに前後のすごく小さい文字でしか「女性」って出てこないのなんなん?ってなるよね。

「女性デーは女性のためのもの」という声も上がっていたけれど、私はそれに対しては複雑な思いを抱いた。
最近続いているトランス女性差別の流れに絡め取られそうな危うさを感じたのもあるけれど、乗れない理由は他にもある気がしたが、その時はうまく言語化できなかった。

国際女性デー、フェミニズムは女性差別撤廃のためのものだ。それははっきりと言える。
しかし女性差別撤廃が「女性のためのもの」と、私はもともと思っていなかったかもしれない。

不正義で不平等だから正すのを、「女性のため」なんて言われるのは心外だ。
この世界が公正で平等であるため、つまり「正しいことのため」である。
正しいことは、すべての人のためにあるというのも本当だ。だから、文意だけ単純に読めば、声明自体は間違ってはいない。

それよりも、なぜそれ自体は間違っていない言葉で「女性差別」という言葉を巧妙に覆い隠したのかを批判したい。
「女性差別にすべての人が関心を持つべきだから」という、同じ理由をもってあの声明文を擁護する人もいたが、それは詭弁だ。
この私たちが生きる「男の世界」で、メディア各社が参加する企画において、大々的に「女性差別撤廃」と掲げることはできなかったのだと、多くの人が直感的に理解した。だから批判された。

「男の世界」で、自らの身体が萎縮していると感じる人も、きっと女性だけではない。さまざまなセクシュアリティの人が女性差別の弊害の中にあるのも事実だ。
シスジェンダーでヘテロの男性であっても、「男の世界」の片隅で萎縮している人はいるだろう。

その人たちには、国際女性デーに「女性だけじゃなく自分も苦しんでいるのを見てくれ」と言うよりもまず、自分の目に女性の姿がどのように映っているかを立ち止まって考えてみてほしい。
UN Womenの動画の女性たちを、「女なのに男のように振る舞う奇妙な身体」と見る感覚が、あなたの中に少しもないだろうか。あなた自身になかったとして、世の中にそういう目はないだろうか。

この「男の世界」の、女性差別の正体が見えてこない限り、すべての人の萎縮した身体が解放されることはない。

女性たちの身体はそのままそのものとして能動的であり、生命というエネルギーを持ち、働き、主張し、政治参加し、表現する。それは男のような振る舞いでもなければ、「男の社会」の片隅に参加しているのでもない。
つまり、ただ人間なのだ。
それだけのことを理解されることが、どれほどこの世の中で難しいか。

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