かなりショックを受けました。
大坂なおみ選手には「漂白剤」が必要と……漫才コンビが差別発言で謝罪|BBC News
お笑いをそこまでよく見るわけでもない私が、Aマッソに急にハマって動画やテレビ出演を熱心にチェックしていたのが、ここ一年くらいの話です。
「まさか、この人たちがこんなことを?」という思いと、「もしかしたらこういうことを言ってしまうかもしれない種はあったような気がする」という思い、両方が渦巻いています。
今もAマッソの話題を目にしたり、思い出すたびに、もやもやと苦しい思いから逃れられずにいます。
しかし、少し近い視点で見てきたからこそ、今このタイミングで書いておかなければならないことがあるように思い、ペンを執りました。
女性ジェンダーロールへの抵抗
私がAマッソを好きになった理由は、ネタの面白さや本人たちのキャラクター、お笑いにおいて妥協しない姿勢もありますが、一番の決め手は「お笑い界における女性ジェンダーロールの押し付け」と常に闘っているように見えたことです。
これはおそらく、Aマッソをよく見ていた人なら、私以外もほとんどの人が感じとっていたことでしょう。
「女芸人」と呼ばれる人たちの扱いは、お笑いの世界でも特殊で、基本的に「女であること」をネタにして笑いを取らなければならないという不問律があるように見えます。
「女として残念である」ということで笑わせるか、「恋愛」や「女同士の確執」など、世間が「女の世界」と考えているものをネタにするか。
本来、多種多様な形があるはずの「人を笑わせる」ということが、女性芸人たちにだけは、狭い世界の中で閉ざされている。それに対して忸怩たる思いを抱き、Aマッソが闘ってきたことは、見てきた多くの人が知っていました。
Aマッソは自分たちの笑いの自由度を高めるために、「女っぽく」も見えないけれど「女を捨てた残念な女」にも見えない独特の身体表象を習得していました。
それは、「女」というキャラに回収されない「少年」のような風貌や雰囲気を身にまとい、表舞台に立つというものでした。
そして、そんな自分たちの表現方法に対する「女芸人なら女芸人らしくしろ」という声を意識したコントも作っていました。
そのコントは、進路面談で「ラーメン屋になりたい」という高校生役・村上に、わざわざロングヘアのウィッグをかぶった加納演じる女性教師が、「女が作ったラーメン食べられない」「思想でショートヘアにしてる女が一番嫌い」「Aマッソみたいな中途半端な女芸人が一番嫌い」と言い放つという衝撃的なネタでした。
その後、このコントは、「ラーメン屋」を「芸人」に変えたよりクリティカルなバージョンでも披露されています。
そんなAマッソがどうして、このひどい差別ネタを口にしてしまったのか。
「俯瞰に逃げすぎ」
Aマッソのことを敬愛する仲の良い後輩に、「フワちゃん」という人がいます。最近テレビにもよく出ていて、知っている人も増えてきているのではないでしょうか。
フワちゃんは、自分に全く関係がなくてもAマッソの出演番組を自身のTwitterで宣伝するほどに2人のことを愛しています。
そんなフワちゃんが、AマッソのYouTubeでの冠番組にゲスト出演した際に、Aマッソに「俯瞰に逃げるネタが多すぎる」とダメ出ししたことがあります。
これはAマッソが仲の良い後輩芸人に「説教する」という体で、後輩芸人の破天荒な面白さを紹介するコーナーの中での一種の茶番劇のようなファイトでしたが、フワちゃんの指摘はなかなか鋭いところがあったゆえに、その瞬間はリアルな緊張感がありました。
この「俯瞰に逃げる」ということと、Aマッソが「女」というキャラに回収されない自己演出をしていたことが、全く関係のないこととは私には思えません。
フワちゃんはそこまでのことを意図していなかったかもしれないけれど、Aマッソが「結局は女だろ」と言われないために取った戦略は、自らを「どの立場でもない者」「何者でもない者」とすることだったと思います。
そのことがネタにおける「俯瞰」という手法を増やしていたのは、否めないように思うのです。
Aマッソは政治や社会風刺的な話題をネタに取り入れることもままありましたが、それらの多くは自分たちの立場を明らかにしないまま、話題になっている社会問題の表面的なことだけを「いじる」ネタでした。
ジェンダー関係だけではないさまざまな社会問題に対して立場を表明することすらも、彼女たちを「何者でもない者」から追いやって、「女」を背負わせるおそれがあったのではないかと思います。
しかし、そんな社会ネタは空虚で、私は「こういう無責任ないじりは嫌だな」と感じながらも、いつか変わってくれることを信じてAマッソを応援し続けていました。
その私自身の姿勢も、無責任だったのかもしれません。
Aマッソの「自分たちの立場を明らかにしない無責任ないじり」の姿勢は、やはり今回の差別発言の種だったように思うのです。
女性の立場の弱さが女性同士を戦わせる。
こういうことは何度もいろいろな場面で見てきましたが、本当にその悲しさ、虚しさが今、身に堪えています。
わたしがわたしであるというだけで蔑まれる
だからといって、今回のAマッソの発言は擁護できるものではありません。
差別される属性を持つ人は、どんな仕事をしたのかもその人の人格も関係なく、「わたしがわたしであるというだけで蔑まれる」ということを何度も味わいます。
Aマッソもきっとその悔しさを何度も味わってきたのではないかと思います。それなのに、同じことを他者にしてしまった。そのことを本当に深く後悔してほしいと思います。
今、Aマッソに今後どうなってほしいかということは何も言えません。
本人たちが納得できる形が、私の納得できる形であるかどうかも今はまだわかりません。
ただ、Aマッソの2人に限らずすべての人に思うことですが、人間が何かに負けて、何かをあきらめて生きるようなことは、なるべくあってほしくないと思っています。
もしも今後、ほとぼりが冷めるのを待って何事もなかったかのように芸能界で生き残ろうとするAマッソの姿を見たなら、彼女たちの硬質に輝いていた理想は潰え、大きな力に負けてしまったと私は感じるでしょう。
YouTubeの生配信で「坂口杏里についてどう思いますか」という質問が視聴者から寄せられた時に、「マジで一緒に生きていこう」と語りかけていた加納が意図していた「生きる」という言葉の意味は、ただ「死なない」ということではなかったと、私は思います。
本当の理想を、本当の自分らしい生き方をあきらめずに生きていくこととはどういうことなのか。そのことを見つめ直したうえで、何らかの答えを出してほしいと思います。
素材出典:写真AC