BLへ愛をこめて~イントロダクション~

このほど、とある計画を思いつきまして。

BL(ボーイズラブ)漫画・小説で、実写ドラマ化・映画化しても名作となること間違いなしの作品を、今後このサイトで紹介していきたいと思うのです。

一つ一つの作品の素晴らしい点、実写化にあたり改善してほしい問題点も含めてご紹介しつつ、BLだけの問題点が可視化されることも避けたいので、百合/GL(ガールズラブ)や少女漫画など、他ジャンルの実写化してほしい作品も(私の好みなので女性主人公の作品が多くなると思います)織り交ぜて掲載していこうかと考えてます。

なぜこれをしようと思ったかというと、きっかけは、12月22日付でmi-molletにて掲載されたドラマ 『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』 (通称「チェリまほ」)の脚本家インタビュー記事でした。

沼堕ち続出ドラマ“チェリまほ”の多様な世界はどうやって作られたのか【脚本家・吉田恵里香さん】

この中で脚本家の吉田恵里香さん、取材したライターの横川良明さん双方から語られたのは、次のような言葉でした。

ドラマはいろんな方がご覧になります。その中には、BLが好きではないという方もいるかもしれません。だからこそ、さまざまな層の方がご覧になったときにどう見えるかということを意識しました。(吉田)

異性愛者かもしれない人にBL的な妄想を膨らませてニヤニヤ見つめるのは、男性が巨乳の女性を見てエロいと言ったりニヤニヤするのと変わらないんじゃないかなという引っかかりがありました。 (吉田)

男性同士の恋愛を描いた作品について記事で言及するときも、原則としてBLという言葉は使わないようにしているんです。これはあくまで僕の個人的な意見ですが、BLという言葉はちょっと性的なイメージが強くつきすぎている気がして。 (横川)

BLというジャンルに抵抗感を持っている人がいるのもわかる。だから、私もTwitterで宣伝するときにBLという言葉は使っていません。何か新しい言葉があればいいのにな、とは思います。 (吉田)

ドラマ自体はかなり良いBL作品だったゆえに尚更、この記事には残念な思いが強いですが、これが「BLの外側」の一般的な認識なのだと思うよりほかないのかな、と思いました。

とくに悔しい、と思ったのは、長くBL文化に身を置いてきたわけではなさそうなこのお2人(横川さんは自身のnoteで明言している)は、いわばBL界において新参者の立場。「少年愛」の頃からとすれば50年の歴史があるBLに新規参入してきて、「BLという言葉は使わない方がいい」とは、あまりにBLの先人たちに敬意がないじゃないか、というところでした。

また、12月26日にはCREAからこんな記事も出ました。

【BL映画】の深化が止まらない!今年公開の“愛”の真価を描いた邦画3作

現在は批判を受けて削除されていますが、元の記事には

“BL”などとカテゴライズしてしまうのは申し訳ない

と「BL」を低く見る表現があり、また現在も残っている文では

コミック原作であるこの作品のユニークなところは、大和と光臣、どちらもゲイではないことだ。
ふたりでいる時が一番心地よくて素直になれる。心から「好き」と思える相手が、たまたま同性だっただけなのである。

という今や商業BL漫画や小説ではほとんど見なくなった、「男が恋人だけどゲイじゃない」という、同性愛者の存在を切り離す差別表現を用いてしまっています。

これらの記事を見るにつけ、あまりにも「BL」という言葉や文化が軽視されていることに、危惧を覚えました。
そして、私自身が20年来のBL愛読者・シッパーであり、女性であり、セクシャルマイノリティ当事者でもあるという立場から、何かできることはないかと思ったのです。

“腐女子の功罪”問題

前述の引用のように、「チェリまほ」の脚本家である吉田さんは、原作(『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』pixivコミック)では”腐女子”(BL好き/シッパー)の設定の「藤崎さん」というキャラクターを設定変更した理由について、「異性愛者かもしれない人にBL的な妄想を膨らませてニヤニヤ見つめるのは、男性が巨乳の女性を見てエロいと言ったりニヤニヤするのと変わらない」と言っています。

しかし、「あの2人は付き合ってるかもしれない」と空想することは、異性愛者を同性愛者だと誤認することにおいてのみ、特に問題があるわけではありません。

(※ちなみに、かなり多くの人が使っている表現なので、このことで吉田・横川両氏を責めることはしませんが、知人に病理としての妄想に苦しんできた人がいるので、私は病気の症状以外では「妄想」という言葉は使わないようにしています)

もしミラーリングするなら、「女性同士をカップルではないかと想像する」もしくは「女性と男性がカップルではないかと想像する」状況でしかないのです。女性の体を性的に見てニヤニヤすることとは同一ではありません。
さらに、現実で最もよく起こっているのは、同性愛者やほかのセクシャルマイノリティ、または異性愛者でも単なる友人でカップルではない人同士が、「男女だというだけで恋愛関係だと誤認される」状況です。

カップルでない人同士が恋愛関係だと想像されることは、時と場合によっては本人に不快な気持ちを与え、エスカレートすればセクハラにもなりうるでしょう。
しかし、知り合いの誰かと誰かが付き合っているかもしれない、と予想したり、想像した経験が、学校や社会生活の中で一度もない人の方が少ないのではないでしょうか。
恋愛だけでなく、私たちは実生活の中で、「あの2人は仲が良いようだ」とか、「この人はあの人のことが苦手のようだ」とか、想像で補いながら、人間関係を保っているわけです。
そのどこからが相手への侵害的な想像になりうるかは、その時々により、線引きができるものではありません。
しかしその中で「同性同士のカップルかもしれない」という想像だけが即セクハラ、ということはありえないですし、異性愛者に対してそう想像したら「体を性的に眼差すのと同等の行為」だというのは、「同性愛者に見られる」ことを殊更忌み嫌う、差別と受け取られても仕方ない発言です。

そして、こうした発言が出てくる背景にはやっぱり、BL文化や”腐女子”と呼ばれる人たちへの軽視があるように思えてならないのです。 
“腐女子”と呼ばれる人たちの行ってきたことは、まさしく「カップルでない人同士を恋愛関係だと想像すること」がエスカレートしたセクハラではないか、と指摘する人もいるかもしれません。

しかし、”腐女子”=「BL好きの女性」には単にBL漫画や小説を読むだけの人、アニメや漫画の二次創作が好きな人、芸能人やアイドルでカップリングする人、知人のカップリングでも萌える人等、さまざまなベクトルがあり、誰しも現実の人間でカップリングしているわけではありません。
「”腐女子”といえば男同士が一緒にいるだけでカップリングしてニヤニヤしている」という理解自体に、女性主体の文化に対する偏見が見えるように思います。

さらに、「チェリまほ」原作における藤崎さんというキャラクターは、会社の同僚である黒沢・安達のカップリングに萌えてはいるものの、そのことは本人たちの前で、態度にも表情にも一切出すことはなく、現実の関係性において何の影響ももたらしていません。 (むしろドラマ版の藤崎さんの方が、安達と黒沢の関係に少々度を超えて介入的に描かれている)
そのどこに、「巨乳の女性を見てエロいと言ったりニヤニヤする」セクハラと並べられるような加害性があったでしょう?

希少な「女性文化」としてのBL

女性主体で起こり男性同士の恋愛を描くBL文化は、他との比較が難しい特殊な構造の文化だということは、これからBL作品と関わる(仕事で関わる場合は特に)人が押さえておくべきポイントかと思います。

女性が主体となってBLを楽しんでいる構造は、男性が百合/GL作品を楽しんでいることとも、大人が子ども向け作品を楽しんでいることとも似ていません。
他に似た構造の文化があるのかはわかりませんが、私はすぐには思いつきません。

そもそも女性が主体となって起こした、女性による女性のための文化というもの自体が、この世界にはとても少ないのです。
少女漫画ですら最初期は男性作家が中心であり、編集部では未だに男性が権力を持っていることが多い。

私がBL以外でぱっと思いつくものと言ったら、「ギャル文化」と呼ばれる時代ごとの女子高校生の独創的なカルチャー、そして、フェミニズム文学やフェミニズム芸術くらいです。
小規模なものは他にももちろんあると思いますが、世間一般に存在を認知されるほどものは、かなり少ない。
そして、「ギャル」も「フェミニズム」も「BL」と同様、現代社会では揶揄され軽視されることの多いものとして存在しています。

その反面、男性による男性のための文化、または「ジェンダーを限定しない」と言いながら男性ばかりを視野に入れた文化は、余るほどあるわけです。
政治も経済も大多数が男性によって形作られてきた社会なわけですから、カルチャーにおいても同じ状況になるのは当然のことです。

そんな中で、数少ない女性による女性のための文化として、この日本社会で50年生き残り、海外にまで波及している「BL」。

ゲイ男性も多くの場合は、男性ばかりを視野に入れた社会構造や文化を享受していることを鑑みた時に、”腐女子”と呼ばれる人たちが常にマジョリティ側にいて、ゲイというマイノリティを消費しているという単純構造では捉えられなくなります。

「他者」を「友達」にしてくれたBL

最後に、私自身にとってBLがどういう存在であったかについて、少し語りたいと思います。

BLは、10代の私に「同性愛者を他者化しなくても良い」という倫理観の整合性を与えてくれたものでした。

小学生の頃、少女漫画雑誌「なかよし」でセーラームーンやレイアース、カードキャプターさくら、猫部ねこや野村あきこ、立川恵作品を読んで育ってきた私にとって、それぞれに個性的で主体的な主人公の少女たちは、古い「友達」のような存在です。

一方で、「人は皆平等」と教わって育ってきたはずなのに、私が中高生の頃、同性愛者は何かいかがわしさと共に嘲笑の対象でもあるような、「一般のわたしたち」とは切り分けられた「他者」でした。
ほんの数年前にも、母親に「この間レズビアン&ゲイ映画祭(現在のレインボー・リール東京)に行ってきた」と話したら、「何それ」と、どこか恥ずかしげな笑いが返ってきたことがあります。まだ私の親世代の認識は、そんなものです。
LGBTという言葉ばかりがどれだけ一人歩きしても、「レズビアン」や「ゲイ」という言葉を出すと、「いかがわしい、笑って良いもの」と認識する人は、世間にまだまだたくさんいるのだと実感します。

私は同性愛者であると同時にアロマンティック(無恋愛)でもあるため、自分自身が同性愛者に当てはまると認識したのは大人になってからですが、自分の恋愛や性愛が”普通”ではないことは、10代の頃からどこかで感じていたかもしれません。
同性愛者が「笑っても良い」「他者」として扱われている社会に対して、どこか倫理的な矛盾感と、生きづらさを抱えていました。

しかし、中高生時代(2000年前後)に出会ったBL漫画やBL小説のキャラクターたちは、少女漫画で出会ってきたような、「友達」のような姿で私の前に現れました。
それぞれにかわいらしさやかっこよさなど魅力があり、同時に愉快で親しみやすい面もあり、主体的に自分の恋愛や人生を選びとっていく、「なかよし」の主人公たちのような同性愛者の姿がそこにありました。
世間一般がまだ同性愛者を「他者化」していた時に、BLが「友達」としての同性愛者の姿を私に示してくれたのです。

BLへ愛をこめて

ここまで綴ってきましたが、一介のBLファンである私は、体系的なことはさほど明確に語れません。
BLという文化がどのような歴史と意味を持っているか、もっと詳しく知りたい方は、近年素晴らしい研究書が複数出ているのでそちらをぜひおすすめします。

そして年明けより、実写化が熱望されるBL(とそれ以外の作品)を紹介するシリーズ 「BLへ愛をこめて」 、スタートいたします。

約20年BLにハマり続け、現在も数日に一度はBLコミックをジャケ買いしてしまう私が、中高生の頃から自分を支えてくれたBLという文化のために、今出来ることをやろう!と奮起しました。

…ちなみに実写化した時のキャスト希望も考えるつもりですが、最近めっきり日本の若手俳優よりタイの若手俳優に詳しくなってしまったので、個人的都合によりほとんどタイ俳優になると思います。

素材出典:photoAC

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